蜃気楼



 ―――そこは不自然なほどに明るい丘だった。
 天に太陽はなく、だが何処からか発っせられている光の粒子が、霧のように体に纏いついてくる。
さらさらとした感触のそれは、決して不快ではなかった。
 それで彼は安心し、軽く息をはいた。
 否、はいただの感触だのという表現は、最早間違いなのかも知れない。しかしながら、彼にはそのように感じられていた。

 遥か眼下に、何処かで見たような景色が広がっている。
 ああ、と彼は思い出す。十数年前に見た風景だ。
怪異には慣れていた筈のさしもの彼も度肝を抜かれた、生涯最大とも言える事件、そのあとに見た光景だった。
 その時は、今のように美しいとも愛おしいとも感じなかった。
 ただ、大きな安堵と、同じくらい大きな不安を隣にいない友へ向けていた。彼はその時、激しい混乱の最中にあった。
 規則正しく碁盤の目のように作られた道、町並み、甍の色、何よりも見覚えのある広大な宮殿・・・彼はふと笑みを浮かべる。
 俺はあんなに美しい「ところ」に住んでいたのか、と。

 緩やかな風が彼の癖のある髪を弄った。特に意味もなく――殆ど反射的に――風が吹いてきた方向を見やった。
 人影を見た気がした。薄墨のような儚い影。
 こんなところに、自分以外の人間がいるのか? 
 いや、居るかも知れぬ、と彼は思いなおした。
 己と同じように、「目的」が同じ人間ならば。
 彼は、人影に向かって歩き出した。

   男は、膝で眠る鳥を撫でていた。
 鳥はおとなしく男の手の平の温かみを受けている。
 不意に、自分以外の人の気配を感じて、視線をそちらに投げかけた。
 久し振りに男が起こした動作だった。男は、鳥と、眼下に見える都との、どちらかにしか視線を投じてこなかったのである。
 微かな野分と共に現れたのは、夜着それのみの、中年にさしかかった年嵩の「彼」だった。
 二人はしばし互いを呆然と見、やがて、男の方が皮肉そうに言い放った。
「…貴様で三人目だ」
「あん?」
「私の作り上げた、この都を眼にしたのは」
 特に害意もなさそうなので、彼は男に近づいてみた。
 男は身じろぎもせずに、ただそこに座している。彼は更に近づいた。
「あいつに聞いたことがある。あんたは、幻を創れるそうだな。あの都を創れるなんて…大したもんだ」
「貴様に言われても誉められた気はせぬ」
「俺も誉めたつもりはねえよ。陰陽師は嫌いだしな。だが…」
 彼は腕を組み、改めて眼下の風景を見やる。やはり、いつか見た本物の都よりも美しい。
 これだけのものを創造できる男が、何故あのような凶行に走ったのかを、彼は未だに知らない。
 男と深い因縁を持つ友は語ろうとはしなかったし、彼自身もまた、敢えて知りたいとは思わなかった。
 人にはそれぞれの事情がある。知って欲しいと友が願ったのなら聴いただろう。だが、友にとって男は「傷」のようなものだったと彼は認識している。
 ちりちりと心を焦がす傷。別の道を模索するべきだったと、或いは見つけられたのかも知れないという後悔の傷。懐かしさを孕んだ郷愁の傷。
 …友は無言のうちに彼にそれを覚らせていた。
 そして目の前にいる男からも、似たようなものを感じ取っていた。彼の身のうちのどこかが、やはり焦げつくような痛みを「感じ」た。だからあえて、彼はおどけて見せる。
「正直、あんたがここにいるとは思わなかった。あれだけのことをしてくれたんだ、とうに閻魔さんの裁きを受けて地獄行きだと確信してたのにな」
 彼の言葉に、男は一向に頓着しない。冷徹そうな横顔は相変わらずだが、どこか雰囲気が柔らかい。爪はもはや獣のそれではなく、瞳も髪と同じように黒曜石の色だ。
 人だ、と彼は思う。
 人だった頃の男を彼は殆ど記憶に留めてはいなかったが、この男の、人であった過去を見たような気がした。
 特に文句も言われそうにないので、彼は男の傍らに座り込んだ。男は、少しだけ不思議そうな色彩を帯びた眼で彼を見た。
「貴様の気が知れぬ。何故私の側に来る」
「嫌ならよそへ行くが」
「…いや、構わぬ。勝手にしろ」
 さやさやと穏やかな風が吹く。
 生まれ年は男の方が早かったが、彼の方が今は年上だった。
 …年上に、なってしまっていた。
「蘇生を」
 男がぽつりとつぶやく。
「蘇生をせなんだか。あれは」
「俺をか?」
 当然だろう、と男は無言で彼を見る。彼はぽりぽりと頭を掻いた。
「あんたも俺も一度は死んだ身だ。あんたはすぐに魔道に行ったから俺のような経験はしておらんだろうがな…」
 そういうと、彼は夜着の前を豪快にはだけて見せた。傷一つない引き締まった腹筋のあたりに、唐突に血が滲み出し、瞬きひとつの間に肉が削げて内蔵が零れ落ちた。
 それらは、腐敗しているように見える。
 だがそれも、始まった時と同様に急速に元通りになった。
「こういう段階になるとな、けっこう自分の考えたとおりのモノを創り出せるんだ。あんたの幻にはとうてい及ばないがね。今の俺はあんたにゃ見慣れない姿になっているだろうが…こうするとどうだ?」
 言うと、彼は先ほどと同様、一瞬にして若くなった。男と死闘を演じていた頃の年齢に。
 夜着ではなく、いつもの簡易服を身に纏い、佩刀までしている。
「便利なもんだろ?」
 屈託なく笑う彼に、男はため息をついた。
「貴様は私の質問に答える気がないようだな」
「そんなことはないよ。ただ、あいつに蘇生をするなと言っておいた理由を示したかっただけだ」
「自ら蘇生を禁じた、と?」
 彼は無言で頷く。男はそこで先ほどの内臓の意味を正確に理解した。
「病か。祈祷も呪術も効かぬほどの」
「あんたにやられたみたいに外傷なら良かったけどな。…臓腑じゃあ、もう天命ってやつさ。鍛えてはいたが、内蔵だけはどうにもならなかったらしい。もともと虚弱体質だからな」
「虚弱?貴様がか?」
 珍しく驚愕の彩を浮かべた男に、さんざん驚かれ慣れしている彼は意外だろ、と笑ってみせる。
 そして、その右手に古びた御守りを出現させた。男はその意味を計りかねていたが、訪ねるほどの興味もまた、わかなかった。
「…戻ったところでこの身体だ。延命は何の意味も持たん。だから、蘇生は無用だと言っておいた。こうしてここにいるということは、珍しく俺の意見を聞いてくれたらしい」
 愛おしそうに守り袋の表面を撫でる。
 いつかの時と想いは同じだ。魂だけを連れ添わせて―――だが、今はそれすらも適わなかった。
「あいつにゃ強力なのが居るからなあ。俺はもう用済みだ」
「守護霊にでもなるつもりでおったのか」
「そうじゃないが…まあ、似たようなもんだ。だからな、せめて待つことにした」
「待つ?」
「あいつもここへ来るのを、さ。あんたも、だからここに居るんだろう」
 それまで規則正しく鳥の背を撫でていた手が、ぴたりと止った。剣のある視線で彼を捉える。
「私があれを待っているというのか?とんだうつけ者だな、貴様は」
「じゃあ、なんであんたはここに居る」
「・・・・・・・・…」
 彼は、今度はごろりと草原に寝そべった。守り袋はもう消えている。
「迎えてやろうや。さっさとここに来ちまったのに、俺もあんたも成仏する気がまだない。しかもさ迷う気もないときた。俺がここに来たのも、多分、あいつを待っているあんたの気配を感じたからだ。あんたは待っていた。――違うか?」
 男は肯定も否定もしなかった。ただ、再び視線を都へと投じる。
「…私はあれの勝手な振る舞いで地獄にも行けぬ。あれが私の魂を昇華なぞさせおったから、私はここに居るしかないのだ。貴様とは、違う」
「同じさ。同じだよ」
 彼は改めて男を見た。
 戦っていた頃は黒い着物だと思い込んでいたが、よくよく見ると濃い灰緑色をしている。
そうだ、あの頃は見えなかったものが、聞こえなかった声が、想いが、今ならわかる。
「あいつに出会わなければ、俺はあんたとここでこうしている事もなかっただろうよ。あんたも、あいつに会わなければ、違った道があった筈だ。それがとんでもなく暗いものでもな。俺たちは、あいつと関わったことで今ここにこうして居る。だから、あいつが来るのを待って、そしてあいつが来たら、せいぜい愚痴を言ってやろうぜ」
 初めて、男が笑った。嘲笑でも自嘲でもない、純粋な笑みだった。
「貴様という男は…全く、あれの気が知れぬ。よくも付き合ってこれたものよ」
「その言葉、俺にも言ってもらいたいね。あの偏屈のやる事に、さんざん付き合わされてきたんだから」
「そしてこの私も、あれの身勝手に今なお付き合わされているというわけか。…なるほど。認めたくないが、同じだな」
 男の膝で眠っていた鳥が、小さく鳴いて眼を覚ました。
「おっ。いつも肩に乗っけてた奴か。撫でていいか?」
「…物好きだな」
 だが、拒絶はしない。
 鳥は、彼を羽根同様真っ黒な目で見上げた。艶やかな背を無骨な手で撫でられ、最初は不快そうに身じろぎしたが、すぐに慣れ、再び眼を閉じた。
「…あとどのくらい、我々はここで待たねばならぬ・・…」
「数十年は待たされるぜ。なんせ、人の倍は生きるつもりでいやがるからな」
「…数十年」
 あまり苦だとは思われなかった。
 今までの十数年は独りだったが、今は隣にもう一人いる。五月蝿いくらいよく喋る男だ。退屈はしないだろう。
「なあ、この鳥はなんて名だ?」
「ラゴウ」
「・・・・・・…趣味悪ぅ」
 それでも彼は鳥を撫で続ける。

 二人は、幻の都を眼下に、清浄な風に吹かれていた。



えーっとですね、妄想です。ごめんなさい。私ただの将之FANです。


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