落ちてきそうな程の。
鈴生りの星を抱えた夜空にひとつだけぽかりと金色の月が半端に膨らんで浮かんでいる。
何夜目の月だろうか。
「用意は出来ているのか、蛙男」
「はい、ここに。――メシア」
鷹揚に頷いて、少年は小さなナイフといくつかの妖しげな――気味の悪い植物の根やら毒々しい 赤い液体といった――品を取り上げた。


Magic Wards


「大丈夫ですか?」
一週間ばかり出かけて、少し憔悴した様子で戻ってきた主に佐藤は心配気に声をかけた。
「・・・大したことはない。少し疲れただけだ」
華奢な腕、薄い肩、細い体。
尋常でない運命と意志を背負うにはあまりにも脆弱な人の体。
ましてや十にも満たない少年が。
なのに、欠片も揺るがないその歩みを支えているのは彼――松下一郎自身の気力故だ。
彼は光と闇の境をどちらにも踏み外さず進み続けている。
すごいことだ、と佐藤は思う。
それをもうずっと昔から・・・恐らくは想像も出来ないほど幼いうちから彼自身の意志で決めたのだろ う。引き締めた唇からも、毅光を宿す眼差しからも、いっそ頑ななまでの孤独な背中からもそれが窺 えた。
辛いと、感じていないわけでもあるまいに。
気付かれぬように溜め息を吐き出して、佐藤は丁寧に淹れた珈琲を白い陶磁器に注いだ。
苦みを含んだ香ばしい豆の香り。
最初のうちこそ身体に悪いと渋ったものだったが、珈琲を飲んでいる時だけは僅かに表情が緩むの を知って以来、出来るだけ美味しく淹れるよう心掛けている。
使徒としての力はなく、知識すらも及ばず、足手まといな自分が出来る唯一可能なこと。
第一の使徒である男が羨ましく、自分の無力が口惜しかった。

「蛙男」
主に呼ばれて書斎へ入ると、革張りの大きな椅子の上に本人を見つけた。まるで玉座に埋もれる 少年王のように見えて、口元を緩める。
「お呼びですか」
「お前のだ。飲んでやれ」
視線の先に白い器を認めて得心がいった。
「ああ、珈琲ですな。何かお聞きになりたいことでも出てきたのかと思いました」
「それもある。が、先に調べなければならんものがあるから、そっちはもう少ししてからでいい」
カップを持ち上げ口に運ぶと、独特の香りが広がる。
薬効があると聞いたが、確かに落ち着くような心地がしてそうかも知れん、とぼんやり思った。
・・・それとも淹れた者の心遣いがそう思わせるのか。
(どちらでも構わんか)
「蛙男」
「は」
「佐藤のことどう思う」
内心首を傾げる。
「どう、とは?何かお気に触ることでもやらかしましたか?」
不思議そうに問うてみると主は苦笑したようだった。
「そうじゃない。あいつ随分無理をしてるだろう」
「そのようですな。しかし、させてやっても構わんと思いますが。・・・今のままでいるのが耐えられん ようですからな」
「僕は役立たずだとは思っていないぞ」
「あいつがそう考えているのが問題なんです。何とかしてお役に立ちたいのでは?」
「・・・償いなんて今更要らないんだがな・・・」
もう昔の話だ、と言い切る主の強さ。
しかし男には不器用な彼の努力が好ましく思えた。
「流石に物覚えはいいようですし、努力は美徳でしょう。それに、メシア御自身が率先してしているも のをまさかやめろとは言えますまい」
「そうか?」
首を傾げる少年に僅かに苦笑して、男は一口珈琲を含んだ。

「佐藤、まだやっているのか」
ふいに背後から掛けられた声に驚いて取り落とした本を慌てて拾い、首を巡らすと、入り口に近いと ころに彼が立っていた。
「脅かさないで下さいよ蛙男さん・・・」
溜め息をついて埃を払う。
「せめて少しは勉強しないと、前のように足を引っ張りたくはないですから」
未だ離れない飛び散った鮮やかな色。
紅い血溜まりに倒れこんだ細い身体。
彼が復活を遂げるまで毎日のように苛まれた悪夢の残り香に、佐藤は僅かに身を震わせる。
「無理は命を縮めるぞ」
冷ややかに言われて苦笑する。
「捨て駒でもいいんですよ。いえ、それもエゴですか・・・。分かってはいますが、自分が許せないん です」
思い上がっていた自分が恥ずかしかった。
生意気で奇行ばかりだと思っていた少年こそが実は誰よりも思い煩っていたのに、気付けなかった 自分が疎ましかった。
誰が許しても今のままでは自分が許せないと、そう思った。
せめて1つでもいい、何かできるようになりたい。
「こんなに強情な奴だとは・・・」
呆れたように男は首を振っている。
自分でも呆れるが、これだけは譲れない。
「すみません」
「まあいい。しかし、いざお前の力が必要になった時に役に立たんようでは意味がないのだぞ。身 体に負担がくる程無理するのだけは止めておけ」
ぶっきらぼうに言って部屋を後にする男に、佐藤は軽く頭を下げた。
「・・・ああ、メシアがお呼びだ。切り上げて早く行くんだな」
最後に言われた台詞に瞠目する。
「それを早く言ってください!」
慌てて追いかける佐藤に男は何度目かの苦笑を洩らした。

佐藤が主の部屋の扉を潜ると、呼び出した当の本人は床一面に模様を描き終わったところだった。
「・・・お呼びですか?」
動揺を隠してそう聞くと円陣の中心に立つよう指示される。
「これは魔法円ですか?一体・・・」
「すぐ分かる。蛙男!」
「はい。何でしょうメシア」
「しばらく留守を守っていろ。僕は例の場所に行ってくる」
「分かりました、お気をつけて」
簡単に行き先を告げながら少年は佐藤の横に立つとスーツの裾を掴み、呪を口ずさむ。
床の模様が一瞬燐光を放ったと思った次の瞬間には見覚えのない森の中だ。
あまりの展開の早さに呆然としているとくい、と裾を引かれて、やっと佐藤は正気に返った。
「行くぞ」
「どこへ、ですか?」
「すぐそこだ」
小さな背中が進んでいくのを慌てて追いかけると、やがて小さな滝に出た。
さらさらと白い飛沫を散らしながら流れる水は清らかに澄んで美しい。
滝が落ち込んだところには柔らかに萌える草花と細い若木に囲まれた泉がある。
暗い森の中でぽっかりとそこだけ陽が差していた。
「綺麗だろう」
少年が無表情にそんなことを言う。
「ええ。・・・まさか、息抜きに来たんですか?」
問い掛けたが答えは返ってこない。
仕方なく、もう一度辺りを見回した。
確かに一見の価値がある。
「きれいですね」
自然にそんな言葉が出るくらいに、この場所は静かで優しい雰囲気に包まれている。
「佐藤」
「はい?」
「無理などしなくていいんだぞ」
さっきの話だろうか。あの男はずっと見て見ぬ振りをしていた。
あんなことを言い出したのはきっとこの主が話題を出したからだろう。
「してませんよ。自分に出来る範囲のことしかしてないんですから」
微かに笑ってそう言った。
「違う」
「何が違うんです?」
「僕が言っているのは、変わらなくていいという事だ」
いつものことだが、端的過ぎて意味を把握しかねた。
よく分からない、と佐藤が言う前に珍しく少年は言葉を重ねる。
「知ることは悪くない。だが、『お前自身』を変えようとするな。今の僕に必要なのは今のお前自身だ 、佐藤」
目を瞠った佐藤ににやりと笑って、彼は言う。
「言っておくが、告白の言葉なんかじゃないぞ?『ごく普通の』人間の感覚を持った者が要るんだ。 僕や蛙男の言動は世間には奇異に映る。それは理解しているが、実際にどう見えているのか知ら なければ前回の二の舞だ。だから、僕は新たな使徒としてお前を選んだ」
「しかし、とても役に立つとは思えないんですが・・・」
「それは僕が決めることだ。それでも不服なら教えてやる」
滝の水に掌を晒して少年が告げた。
「お前の淹れた珈琲は美味い。それで充分だ」
何かが崩れた気がした。
確かに自分を変えてしまいたいと思って必死になっていたが、必要ないと彼は言うのだ。
今のままの自分で価値が有ると。
気が抜けて思わず苦笑してしまう。
ある意味、こんなに冷たくこんなに優しい言葉はない。
いかにも少年らしい台詞と間抜けな自分に笑いが零れる。
「その為に・・・ここまで来たんですか?」
「悪いか?」
振り向いた少年の目は本気に見えた。
「いえ、すいません。なんだか気が抜けてしまいました」
いつの間に昇ったのか、朱の混じり始めた空に薄い月が見える。
「そろそろ戻るか」
「そうですね」
すっきりした気分で先程の森の中へ戻ると、足元に赤く描かれた魔法陣がある。
来た時には気付かなかったが、そこだけ露出した土に部屋にあったのと同じ模様が見えた。
踏まないように気を付けて中心に立つと、また一瞬で見慣れた部屋へと移動した。
目を開けると男が立っている。
「少しは気晴らしになったみたいだな」
大真面目にそんなことを言われて、いかに心配されていたかやっと分かった。
多分本人たちには自覚はないとは思うが。
「佐藤」
「はい?」
「喉が渇いた。珈琲を淹れてくれ」
少年は既に椅子に腰を下ろして分厚い書籍を広げている。
それに軽く頭を下げて彼は台所へと足を向けた。
『ミネラル』の萌生さんから戴いた松下ファミリー小説です♪
どうもありがとうございました〜vvv

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