夢見るは昔日の光


 さくさく、さく。

 足元で乾いた音がする。
 一晩で積もった雪は大した量ではなかったが、気温の低下によって表面が硬くなっ てしまっている。それを踏みしめると、こんな硬い音がする。

 さくさく、さく。

 まだ誰も通ったことのない処女雪に足跡を残していく。静かな、ぴんと張った空気 にはこの乾いた足音さえ響く。

 さくさく、さくさく。

 木陰の奥にようやく目的の家を見つけて、やや足早になる。この男でも感傷的にな ることはあるのだ。


 がらり、と玄関の硝子戸を開く。薄暗い、冷えた空間に入って、ようやく男は肩の 力を抜いた。
「只今戻りました」
 小さく呟いた声に、応えはない。期待もしてはいないのだが。
 靴を脱いで、黒い板貼りの廊下を歩き出した。家の中でさえ、吐く息は白い。
 奥まった部屋の前まで来て、廊下に跪いた。すぅっと、襖を引く。
 布団の中に、小さな体が横たえられていた。
 それは、男の主人。
 生きていた頃の名を、松下一郎という。

 青ざめた顔には、苦痛の表情はない。
 ただ、静かに目を閉じていた。
 無言で蛙男は手を伸ばした。布団を最小限剥いで、胸の上に手を乗せる。
 心音は感じられない。
 心臓が鼓動していないということは、脳に酸素が送られていないということである 。つまり、この少年はいかなる意味でも活動はしていないのだ。
 しかし、彼の体は全く腐敗とは無縁だった。ただそのことだけが、唯一の希望だ。
 ため息をついて、手を離す。少年の服の下には、未だ生々しい傷跡がある。それが つけられた日のことは考えたくもなかった。



 松下一郎は殆ど眠らない少年だった。
 以前蛙男の仲間だった一人などは、それを酷く気にしており、睡眠をとるようにと 何度か強く進言していた。
 それが煩わしくなったのか、ある時少年は手にしていた書物から目を離し、こう話 し出した。
「何故人間が眠るのか、その理由をお前は知っているか?」
「起きている間に蓄積した疲れを癒すためです」
「それだけじゃない」
 ぎし、と少年が身じろぎをしたために軋んだ椅子の音が、何故か今でも耳に残って いる。
「脳というものは、起きている間に貯めこんだ膨大な量の情報をそのままにはしてお けない。それを整理する間は、極力新しい情報を取り入れないような環境が望ましい 。だから、その間生物は睡眠を摂る。五感がある程度遮断されるから、情報がインプ ットされる量は起きている間に比べて格段に減る」
「でしたら、尚更……」
 普段から膨大な量の書物を読破し、世界各地を飛び回る少年に、心当たりがありす ぎたのだろう。彼は、重ねてそう云いかけた。
 薄く笑みを浮かべ、松下一郎は自らに苦言を呈した使徒を見上げた。
「お前は、僕の脳が周囲を遮断しなくては情報の整理をこなせないほど無能力だと思 っているのか?」

 その時、自分は何もしていなかった。
 勿論少年の睡眠時間が少ないことは知っていたが、それを気にしたことなどなかっ た。
 少年のように理論立ててそれを理解していた訳ではなかった。
 既に人間の肉体を捨てて久しい自分には、人間の身体の仕組みなど興味もなかった からだ。
 だから、人間としての松下一郎を気遣う仲間を、そういう者も必要なのかもしれな い、とまで思っていた。
 少年の言葉を聞いて、激しい畏怖の色を浮かべる仲間に、これで更に忠誠が深まる だろうと思ってさえいたのだ。

 人間の心の仕組みなどには関心がなかったから。

 そのことを、自分は今も後悔している。


 目を閉じて横たわる少年。それは見慣れぬ姿ではあった。
 だが、彼は必要なことを行うのを躊躇ったことはなかった。彼が未だこのような状 態であるのは、おそらくはそれが必要であるからだ。
 自分にできることは、彼が成すべきことを成して戻ってくるのを待つことだけだ。
 できるかぎり、万全な状態で。

 布団をそっと少年にかけなおすと、蛙男は立ち上がった。今回手に入れてきた書物 等を整理しておかなくてはならない。
 主が、それを目にする日まで。










『理想郷計画総本部』様で見事狙って踏んだ39000HITでリクさせていただきました!
蛙男と松下で、というマニアックなリクを快く受けて下さった牧さん、本当に有難うございました!

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