BUNCHED BIRTH |
君が僕を知らなくても 僕は君を知っているよ・・・ |
少女は撫でる。 柔らかく、子供特有のふくよかな幼い手で。 膨らみ始めた女の腹に、最初はおずおずと、次第に慣れた飼い猫を撫でるような仕草で少女は触れる。 ――――なんて、気持ちが良いのだろう。今までこんな風に触ってもらえたことなどなかった。 『接触』と呼べるものは、聴診器であり、薬品が塗られたガーゼであり、ぬめりを帯びたゲル剤と超音波器、突き立てられた注射針などだった。 こんな感覚は初めての経験だ。この女さえ、こんな手つきで触れられたことなどなかった。自分の腹だと云うのに。 うっとりとして少女を見る。 自らでは触れようともしない、享楽と快楽の果てにこの様な監獄に収監される身となった、この愚かな女の視神経を通して。 「とおる」 少女が呟いた。 「とおるちゃんがいいな。赤ちゃんのなまえ」 「馬鹿じゃないの、あんた」 女は染め過ぎてぼろぼろになった髪の毛を掻き毟りながら吐き捨てた。抜けた髪がばらばらと床に落ちる。 髪の傷みは染髪剤のせいだけではない、という事にこの女はまだ気付いていない。 「赤ん坊が男か女かわかんないんだよ。いきなり男の名前つけてどうすんの」 でも、と少女は女の乱暴な言葉に狼狽し、慌てて手を引っ込めた。 温もりは急激に遠のき、不愉快な女の思念が周囲を取り囲む。 ああ、全く苛々させられる。 自分が知らされていないということに、何故気付かない。 「男の子は、みんな、青い服を着てるでしょ。女の子はピンク。でもおねえさんは青い服を着てるから、赤ちゃんが男の子なのかなあって・・・」 頭が良い。洞察力もある。この馬鹿女とは比較にならない。不快な気分が少し薄れた。 「ああ、そう。あんたはピンクの服着れて良かったね。でもこれはただの服じゃないのよ。それは知らないだろ?教えてあげよっか。これはモルモットの首輪!人体実験される奴が着る囚人服なのよ!わかった?何も知らないお嬢ちゃん!」 何て愚かなんだ。こんな少女相手に不安をぶちまけるなんて。 ここに来る時は助かっただの、いい金になるだの、さんざん喜んでおいて、ここの実態を知るにつれて、こんな幼い少女にまで口汚く喚いている。 不安。 そう、この女は不安に押しつぶされそうになっている。見てはならないものを見たからだ。 自分の他に同時期に連れて来られた二人の女が、下半身から大量の出血をし、いずこかに運ばれて行くのを。その後、二人の姿を見た覚えもないし、誰に尋ねても明確な答えは返ってこない。 「あの人たちきっと死んじゃったのよ!あたしも死ぬんだ!あんたも!ここにいるやつらはあたしらを殺すつもりなんだ!こんな所来るんじゃなかった!やっぱり最初から堕ろしとけばよかったんだこんなガキ!こいつが生きてるせいであたしは出られない!出られないようーっ」 またそうやって喚く。五月蝿い女だ。 ほら、少女はもう泣きそうな顔になっている。お前のせいだ。お前のせいだ。お前の。 「とおるちゃんはね、あいごえんで死んじゃった子なの。来てすぐに、ええと、おなかがすっごく脹らんで。お父さんに足でぶたれたんだって。痛いって泣いてた。死んじゃうのかなって。あたしもこわくて泣いちゃった。でも死ぬのってかわいそうだよね・・・」 少女は幼いなりに言葉を紡ぐ。その声は女に同情するようでもあり、自らの悲しみを告白する事によって、自分自身を慰めているようでもあった。 少女が哀れに思えてきて、抱きしめたい衝動にかられる。現実には、それは不可能なことだけれど。 女の思考が止まった。何がキーワードになるのかはわからないが、こういうことは最近多い。 女は精神がおかしくなりかけていて、激したかと思えば、このように唐突に放心状態になる。 静かな波が広がり、周囲も穏やかになった。 「おねえさんは大きいし、ぶたれたりしてないから死なないよ。ね、あたし歌うたってあげる。啓子ちゃんに教えてもらったの・・・・・・・・・」 少女は小さく口ずさむ。 幼い手が再び腹に触れてきた。女はまるで頓着せず、されるがままになっている。こちらもその方が安定していて気分が良い。 ひとしきり唄い終わると、少女は腹に頬を寄せた。 信じられないくらいの幸福感が襲ってくる、泣きたいような気持ちになった。 悲しいわけではない、ひどく嬉しいのだ。 「可奈子ちゃんの弟はね、ブリキの車を持ってるんだよ」 ・・・玩具の、だろうな、多分。ブリキ。残念ながらまだ『ブリキ』の知識はない。どんなやつだろう・・・。 「とおるちゃんは可哀想。だから、この赤ちゃんが幸せになったら、死んじゃったとおるちゃんも幸せになるって、思うの」 少女が言うなら間違いない。「とおる」は幸せになれるんだ。 「 さ、お部屋に戻る時間よ」 背後から声がした。アイボリーの研究衣に身を包んだ女性が休憩室に入ってきた。 残念なことに、少女の柔らかい手が、女の腹から、「ぼく」から離れていく。 待ってくれ。もう少しだけ触ってくれ。 「僕」に触れてくれ。 ぱん、と何もない筈の空間で小さく火花が散った。叫ぼうにもそれができないから、せめて少しでも少女を引きとめようと、僕の中の何かが躍動したのだ。 三人は虚を突かれたように火花が散った辺りを見ていたが、研究員はすぐに我を取り戻したのか、二人に部屋を出るよう、もう一度指示する。 「さ、行きますよ・・・」 研究員に背を押され、女も力なく立ち上がる。少女の方を見て、研究員は作り笑いを浮かべた。 「真理ちゃん、あとでもう一回お耳の検査するからね。少しの間お水は我慢していてね。また吐いちゃうの、嫌でしょう?」 「けんさって・・・あの、耳にお水入れるやつ?」 「そう。気持ち悪いだろうけど、我慢できるわよね?真理ちゃん」 少女は少しだけ俯き、それでもきちんと返事をした。 「はぁい」 まり。 真理、って、言うんだね。 君は真理という名前なんだね。 僕は「とおる」。 君がつけてくれた名前だよ・・・・・・・・。 真理はここに連れて来られて二日目に出会った妊婦に会いに、たびたび休憩室を訪れた。 休憩室は、出入り口の正面が全面ガラス張りで、外には小さな庭らしきものが見える。 三方が白い壁に囲まれていて、中庭になっているようだ。植えられた背の低い樹の葉がかすかに風に弄られていたが、生憎そのわずかな風さえ、この部屋には入ってこない。 部屋の両の壁際には桜色の長ソファが置かれ、中央にも丸い、背もたれのないクッションのような一人がけのソファが置かれている。 壁には淡い若草色で蔓科植物が描かれていた。真理の知らない植物だった。 部屋の隅からは小さな音量で絶えずクラシック音楽が流されていたが、これもまた、真理は知らなかった。 それでも、壁の全面もシーツも毛布も枕も白い病室に比べれば、休憩室は色のある、穏やかで優しい場所だった。 妊婦はいつも、左側の長ソファに座っている。 妊婦の髪の色は赤く染められていたが、ところどころ、まるで壁に塗られたペンキが剥がれたように白髪になっていた。 妊婦の年の頃はよくわからない。愛護苑の職員は大人だが、この妊婦は彼らに比べるとまだ若い気がする。 時々ボランティアで訪れる中学生や高校生くらいに見えた。 もっとも、この妊婦は精神の病が進んでいるのか、憔悴した顔からは明確な年齢は想像できなかったし、そもそも真理は、自分よりも体の大きい大人の年齢を計るには幼すぎた。 真理は子供らしい純粋さで女をおねえさんと呼び慕った。 両親は自分を捨てたので、母親というものに思慕があったし、寂しさの裏返しのように、生まれてくる子供に、幼いなりに深い愛情を寄せた。 会うたびに膨らみつつある腹を撫でさせてもらい、愛護苑でのこと、休んでしまっている学校のこと、同じ病室にいる子供たちのことなどを喋った。 妊婦は、それをひどく興味深そうに聴いている。そして、もっと真理の事を知りたいとせがむのだ。 真理は、まるで母親に聴いてもらっているようで、自分に興味を持たれたのが嬉しくて、腹を撫でながら、請われるままに様々なことを語った。 |
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