この病院のような施設に来て一週間近くがたつ。 八歳という年齢のせいもあったにせよ、未だに自分が何のために、どういう目的で、妙な実験(それらには苦痛や不快感を伴うものもあった)や投薬を受けているのか、真理には見当もつかなかった。 だが、施設に対してすでに奇妙さを超えて不気味さを感じ取っていたし、日に日に回数を増していくそれら実験や投薬が、真理に不安を与えていた。 無性に愛護苑に帰りたかったが、迎えはまだ来ない。 可奈子は今朝弟が死んだと聞かされて、枕に顔をうずめたまま泣き続けている。その手にはブリキのミニカーが握られていた。 弟が激しい咳とともに吐血し、その衝撃でミニカーが床に落ちてへしゃげたのだということを、可奈子は知らない。 亜希は昨夜遅くから高熱を出し、何処かに運ばれたまま病室に戻ってきていない。 啓子は妹を心配し、亜希の枕を抱きしめたまま呆然とわらべうたを歌い続けている。 夏美は「いやや」と喚くばかりだ。 十二人部屋のベッドは当初全て埋まっていたが、今はその半分以下にまで子供は減っていた。 昨日あたりから妙に施設内が騒がしい。 最初は色々と物珍しくて好奇心でいっぱいだった真理も、最早そんな気持ちは消え失せていた。 良くない雰囲気が、施設を包みつつあった。 病室にいるのは辛かったので、自然、足は唯一自由に出入りの許されている休憩室へと向かう。 あの妊婦は、真理が来るのをいつも待ってくれている。 「真理ちゃん、こんにちは」 初対面の時こそ厳しい顔をして怒鳴っていた妊婦は、最近ではすっかり優しげに話しかけてくれる。 「何か、変わったことはあった?」 先ずそれを聞いてくる。理由はわからない。 「・・・可奈子ちゃんの弟が死んじゃったの」 「ブリキの車を持っている男の子?」 こくんと、真理は頷く。 「亜希ちゃんは、昨日の寝る前くらいから高い熱が出て、お医者さんが連れて行っちゃった」 妊婦は注射と点滴の痣も生々しい腕を伸ばし、真理の頭を撫でた。 「真理ちゃんは?どこも痛くない?お熱はない?大丈夫?」 「うん・・・大丈夫」 体に何の不調も変調もないことが、健康なのが罪悪のような気にさえなる。 ぽろぽろと櫛の歯が抜け落ちるように居なくなる他の子供たちのベッドを見ると、悲しさと不安とで涙が出そうになった。 周囲の大人たちは元気な子供には投薬と実験と検査を、不調や変調を訴えた子供は別室へと移動させている。 居なくなった子供たちはどうなったのだろう。 「おねえさんの赤ちゃんは、元気?」 すると妊婦は破顔した。驚くくらい嬉しそうな顔で、真理を抱き寄せる。 「元気だよ・・・」 ほんの一瞬、違和感を覚えた。それがまるで男の子のような声に聞こえたからだ。 だが、背に回された腕は温かく、膨らんだ腹を目の前にすると心が安らいだ。 「おなか、撫でていい?」 もちろん、とまた女は優しく微笑む。 撫でると、女は目を瞑って歓喜に身を任せる。 この女を支配する者の正体を、真理が知ろう筈もない。 二日後に、亜希が病室に帰ってきた。熱が下がり、安定したからだと看護婦は言ったが、髪の毛が真っ白になってしまったのは何故だろう、と真理は訝しむ。 啓子は妹の髪を見て泣き出し、当の亜希は、天井に顔をむけたままぼんやりとしている。 「帰りたい・・・」 可奈子もしくしくと泣き出した。 夏美は枕を弱々しく、それでも怒りとも恐怖ともつかない表情で叩き続ている。 やりきれず、真理はまた休憩室に向かう。そこだけが、安らぎを得られる場となっていた。 スライド式の扉の取手を持ったところで、中から女の悲鳴が聞こえた。 とっさに怖くなり、思わずその場立ち竦む。 「お願い、やめて!」 声はあの妊婦のようだが、最初の頃のようなヒステリックな叫び声だった。 「あたしはあんたのあやつり人形じゃない!やめて!やめて!」 同時に、連続して小さな花火が破裂するような音がした。 「おねえさん!」 「あら、真理ちゃん」 真理はきょとんとした。 破裂音に驚いて慌てて休憩室に入ってみたが、妊婦はいつものような優しい笑みを浮かべている。何かが破裂したような跡もない。 では、扉の外で聞いた声と音は。 「おねえさん、今・・・」 言いかけて、真理は異臭を感じた。かすかに残る、何かが燃えた時のような焦げ臭さ。 だが、やはりそんな痕跡はどこにもない。 「真理ちゃん、今日は何かあった?」 妊婦の様子がいつもと変わらないので、幼い真理はすぐに先ほどのことは忘れた。重要なのは、そう、亜希の髪だ。 白くなってしまった亜希の髪のこと。減っていく子供たち。 可奈子、河村姉妹、夏美。そして自分。 最初はあの広い病室に十二人もいたのに、もうこれしか残っていない。 「真理ちゃん、帰りたい?ここから出たい?」 力なく首を縦にふると、妊婦はにっこりと微笑んだ。 「出たいよね・・・。出ようか。ここから」 え、と真理は顔を上げる。その真理の額に、妊婦の唇が押し当てられた。そのまま抱きしめられる。 真理も抱きついた。 人との接触は限りなく暖かい。身長差のせいで、顔は妊婦の腹に当たる。そこから、暖かい気配を感じた。 「出してあげる。大丈夫。真理は何も心配しなくていいからね」 つと身体を離し、妊婦は休憩室の出口へと向かう。 いつもなら休憩室の利用時間が終わるか、研究員がどちらかを呼びに来るまで話しているのに、と真理は呆然とその背を見る。 女の足取りは妙に決然としていて、追うことはおろか、声をかけることさえ躊躇われた。 女は振り向きもせず、スライド扉を後ろ手に閉めた。 それが、女と会った最後だった。 その晩遅く、施設で火災が発生した。 治療中の子供、研究者、看護婦、子供以外の被験者、そのほか多くの死者が出た。 火災の原因は不明。 火元と思われる場所から一番遠い病室にいた真理たち五人は何とか逃げおおせた。 ――――その後、生き残った子供たちは洗脳され施設のことを忘れさせられた。 それぞれが監視つきの家の養女になり、真理もまた妊婦を忘れ小林美雪の養女となった。 誤算だったな、と彼は思う。 胎内に居た頃は殆ど自分の思いとおりに操られた母親が、子宮を出てからは以前ほど言うことを聞いてくれない。 「臍帯からの方が、直接脳に命令できたってことかあ」 彼はぽん、ぽん、と空気を破裂させながら呟く。 生まれてわずか半年。 しかし彼の外見はすでに三歳児ほどに成長し、言葉もすらすらと喉を通る。 また一つ空気中の酸素を圧縮させ、そこに火種を落とす。圧縮も火種も、彼の思念から生み出される。 ぽん、と破裂した花火は火の粉を散らすこともなく、空気に還る。 考え事をしている時の彼のくせだ。 「――ちゃん、ご飯にするから・・・」 背後からおずおずと母親が声をかけてくる。 これが最大の誤算だ。母親は自分に、望みとおりの名前を与えなかった。 事もあろうに、今は所在も知れない彼の父親の名前をつけたのだ。それは彼に対する母親の、ただ一つの抵抗だった。 その名で呼ばれるたびに怒りがこみ上げるが、今はまだこの女の庇護が必要だ。それでどうにか感情をコントロールできる。 いつか真理に会い、あの名で呼ばれたい。彼の唯一の望みは、まだ当分叶いそうにない。 食卓に並べられた食事を見て、彼はため息をついた。 「もう離乳食はいいよ。昨日の晩、そう言ったでしょ」 「ああ・・・ええ、そうね。もう普通のご飯、食べられそうね・・・」 母親は決して彼の顔を見ない。彼もまた、母親の顔を見ない。 彼は五歳になった。見かけはすでに十歳前後に見える。 思念で物を燃やす――パイロキネシスの他に、彼は母親をある程度操れることから、暗示能力も備わっているのではないかと考え始め、それを実践してみた。 一番かかりやすいのはやはり母親だが、これは血の繋がりのためか、母親にすでに抵抗する意思がないのか判然としない。 そこで、公園などに行き、遊ぶふりをしながら全くの他人にも暗示をかけてみた。 子供にかけても意味がないので、手にした玩具を適当に投げ、それを大人に拾わせた。 ありがとう、と受け取る瞬間を狙って暗示を仕掛けてみる。 数人に試した結果、暗示にかかりやすいのは、相手が自分に対して無防備である時と、パニック状態になった時であると判明した。 パニック状態を作り出すのは簡単だ。相手の周囲を、炎で包んでしまえばいいのだから。 彼は、二度ほど暗示に失敗した。なかなか掛からないので、つい炎を出しすぎてしまい、相手を焼死させてしまったのだ。 「お母さん、引越しするよ」 焦げた臭いを身体に纏って帰宅した彼に、母親は深いため息をついた。 親子は月単位であちこちを転々としていた。彼の成長が異常に早いのと、『力』のせいで彼が頻繁に妙な事件を起こすからであった。 彼は母親に色々と要求した。 目立たないよう、服や髪型は控えめにしろ。 昔の友人知人、家族とは一切連絡をとるな。 自分の事を訊かれたら弟だと言え。 金は自分が何とかするから、買い物以外は家から出るな。 『何とかした』金の出所を、母親は聞きたくなかった。母親は彼の『力』の恐ろしさを、誰よりも理解しているのだ。 親子は一緒に居た時間の殆どを、ウィークリーマンションで過ごした。定住できる家も、安定した生活も、親子と無縁だった。 事件が、起きた。 彼に言われるままに買い物を済ませた母親が、知らない男を三人ほど連れて帰って来たのだ。 「・・・その人たち、誰?」 「あんたを探しに来たのよ!良かったわね!」 数年振りに聞いた、母親の下品な声だった。 数日前からあの施設の連中と接触していたのは薄々と知ってたが、まさかここまで愚かな真似をするとは予想もしなかった。 「あんたを保護してくれるってさ!あんたにはそりゃあ素晴らしい力があるもんね!ああ、これでやっと自由になれるわ!」 買ってきた物を乱暴に彼に投げつけ、勝ち誇ったようにソバージュの髪を揺らして大笑いした。 呆れて、言葉も出ない。 施設に連れ戻されたらサイ能力者である自分はモルモットで済むかも知れないが、この女はデータをとってしまえば、秘密保持の為に処分されるに決まっている。 何故そんな簡単なことがわからない。 「お母さん、どうして、その人たちを連れてきたの?」 「あんたを連れて行ってもらうためよ!あんた、あたしの年齢知ってる?まだ十九よ!あんたのせいで私は十代でこんな目にあわされて!ああ良かった!これで来年の成人式にも出られるわ!」 口の端に泡を立てながら、一気にまくし立てる。彼は、怒りを通り越して悲しくなった。 同時に、虚脱感が襲う。 母親の背後に居る男たちが囁きあう。 ――彼の力は。 ――全くデータがない。洗脳も施されていない筈だ。あの火災のあと、この被験者は死んだと思われていたからな。 ――この成長の早さからすると、河村亜希のようなPK能力かも知れんぞ・・・。 「はずれ」 彼は母親を通りこしてゆっくりと背後の男たちに言った。 ぎょっとして男たちが彼を見る。視線が合った瞬間を彼は逃さなかった。 かくん、と男たちの身体が軽く弛緩する。立ってはいるが、両手をだらりと下げ、うつろな目をしている。 「ねえ、生き残ったみんなは何処にいるの?みんな、どんな力を持っているの?知ってるなら教えてよ。河村亜希ちゃんは?」 「・・・河村亜希はサイコキネシス・・・居場所は愛護苑の特別室に・・・」 「啓子ちゃんは?」 「テレポート能力・・・およびテレパシー・・・居場所は都内のM市の・・・・・・・・・」 男たちは問われるままに喋る。 間にいる母親は男たちと彼を交互に見比べ、叫んだ。 「あ、あんた、何してるのよ!」 「うるさいよ、お母さん」 彼は無造作に小さな熱球を母親に投げつける。 母親は悲鳴を上げる事ができなかった。喉を焼かれ、床に崩れ落ちる。蟲のようにもがいている。 母親を完全に無視し、彼は質問を続ける。 「真理・・・小林真理って、名前になったのか。真理はどこ?」 五人の消息を聞き終えると、彼は別の質問をした。 「あの施設や、おじさんたちの正体は?」 「・・・施設は製薬会社ミネルヴァの実験施設。人造超能力者を作るための・・・もの。我々はミネルヴァの諜報課所属・・・・」 「ミネルヴァ、ね。覚えておくよ。じゃあ、おじさんたちはこれから、外にいる人たちを適当に殺してきて。銃、持ってるでしょ。警察か本社に捕まったら、こう言い訳するんだよ。『実験体が抵抗したので思わず撃ち殺してしまった。任務が遂行できず、自棄になって人を殺したくなった』・・・ってね。復唱して?」 「・・・実験体が・・・抵抗したので・・・」 彼は満足げに笑うと、行ってらっしゃい、と手を振る。表情も仕草も、まるで会社に出勤していく父親を見送るようだ。 男たちはよろよろと玄関を後にする。 数分して、屋外から銃声と共に人々の悲鳴、逃げ惑う喧騒が聞こえてきた。 窓から外の様子を伺ったあと、彼は床でもがいている母親に近づき、傍らにしゃがみこんだ。 「大丈夫?お母さん。でもお母さんが悪いんだよ。あんな大声出したら、暗示が解けちゃうじゃないか」 母親は床を爪で掻き、必死に声を絞った。 「生むんじゃなかった・・・あんた・・・なんか・・・」 ぜいぜいと喉が鳴る。彼は黙ってその音を聴く。 「この・・・化け物・・・!」 さ、と彼の瞳に暗い影が落ちた。 「そう。そうか。わかったよ、お母さん」 |
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