彼は母親の前髪を乱暴につかむと、恐怖におののいた目に暗示をかけた。 にっこりと、子供のように彼は微笑んだ。 全てを放棄したのか、母親は、いとも容易く彼の暗示にかかった。 ゆらりと立ち上がり、ユニットバスへ向かう。タイルでできている部分に棒立ちになり、彼を待つ。 「さようなら、お母さん」 彼は額に手を当てる。 母親の足元から煙がくすぶる。中世の魔女狩で、火あぶりになった人みたいだ、と彼は思う。集中力が足りないと感じて、もっと思念を出さなければと、今度は両手で頭を押さえ、燃えろ、と念じる。 燃えろ。燃えろ。その女だけ燃えてしまえ。 一気に母親の身体は炎に包まれた。 骨の一片も残らず燃え尽きてしまえ。 愚かな女。 遊ばれていたとも知らず、下らない男の子供を宿し、堕胎しようとした女。 ミネルヴァの誘いにまんまと乗り、収監された女。 優しい真理に口汚く愚痴を吐いた女。 僕に怯え、僕から目をそらし、僕を見ようともしなかった女。 燃えろ、燃えろ、燃え尽きてしまえ! 数分後には、彼の母親だったものは一山の灰になっていた。 それを彼は長い間見つめていた。生きていくのなら、もう一人ででもかまわない。 この『力』さえあれば、困ることはないだろう。 まだ熱い灰をひとすくいし、ふ、と息で飛ばしてみた。軽々と空に舞うそれを見て、埃と一緒だ、と笑う。 真理は、この女になついていた。女を操っていたのは僕だけれど。 このことを知ったら真理は僕を嫌うかな。 嫌われたら・・・やはり僕は真理も燃やすのかな。 そんなことを考えながら、彼はユニットバスを後にする。 ミネルヴァの情報が手に入ったことは、大きな収穫といえた。 能力の開発は自分自身でも行ってはいたが、どうしてもクリアできない問題があったのだ。 成長が早すぎるのである。 「真理は今十三歳か・・・」 自分は生まれてからまだ五年足らず。にもかかわらず、外見はその倍の年月を経ている。 このままでは、あっという間に真理を追い越してしまう。 河村亜希はサイコキネシス能力を持っているとあの男たちは言っていた。それ故に成長が早いのだと、そんな会話だった。 サイコキネシスは超能力の中でもクリヤボヤンスやテレパシー、サイコメトリーよりもはるかに強大な力だ。 だからこそ、副作用も大きいと考えられる。それは、自分にも該当しているのではないだろうか。 何とかしなくては、と彼はいつものように空気中の酸素を炎で炸裂させて考える。 生き残った少女たちから、何か情報は得られないだろうか? 自分はまだ洗脳はされていない、と彼らは言っていた。 裏を返せば、自分以外の子供たちは洗脳されていることになる。 河村亜希を除く全員が養子に出されていることから、施設内で行われた実験の記憶は封印――忘れるという洗脳――されたのだろう。 ならば、その封印を解いてしまえばいい。 だが、どうやって? 空気中に発生させた炎を素手で握りつぶす。 それと同時に、外から急ブレーキの音と、がしゃん、と鉄の塊同士がぶつかり合う音がした。 カーテンの隙間から表をのぞくと、まだ先ほどの男たちを中心に混乱が続いていた。男たちのうちの一人がやってきた車に発砲し、慌ててハンドルを切った車と別の車が、接触事故を起こしたらしい。 まだやっているのか。警察も忙しいのかな。これだけの騒ぎに、まだ到着しない。それとも。 「ミネルヴァと警察がもめてるのかな」 彼は失笑しながらカーテンを閉めた。その視線の先に、ブリキの車が見える。 車。 事故を起こした車。 ブリキの車も歪んでいる。 暗示の実験のために、見ず知らずの人間に投げた玩具。 ――可奈子ちゃんの弟はね、ブリキの車を持っているんだよ。 唐突に真理の声が脳裏に蘇ってきた。 使えるかも知れない。可奈子の能力は、確か透視能力。 だがある程度『力』を持つ者なら、キーワードさえあれば洗脳は解けるだろう。 彼はそこらにあった紙片に、可奈子宛の手紙を書いた。 『田嶋可奈子 送り主の名に特に意味はない。彼の本名のアナグラムだ。 願わくは、可奈子たちが何らかの行動を起こしてくれますように。 くすくすとそんな祈りをしながら、へしゃげたブリキの車を箱に入れ、『手紙』を入れる。 そこで初めて、彼は手紙を書いた紙片が母親の写真だったことに気づいた。 念写でもできないかと購入したカメラで最初に試し撮りした、一枚きりの母親の写真だ。結局、念写は成功しなかったのだが。 写真の中の母親は、肩までのソバージュの髪とやつれた表情で、それでもあるかなしかの微笑みを浮かべている。 「・・・嬉しかったの?お母さん」 ユニットバスの方に目を向け、そこからちらりと覗いている灰に向かって、彼は問いかけた。 涙が一粒だけ、頬を滑り落ちていった。 数年後、『三日月島』と呼ばれる島で、彼はこの写真を再び目にすることになる。 それから更に六年が経った。 彼は十一歳になっていたが、外見は二十歳前くらいに見えた。 あの事件で母を始末して以来、ミネルヴァからは何の干渉もなかった。おそらく作戦は成功したのだと彼は考えている。 そして、今こそ真理に会うべきなのだ、とも。 彼の暗示能力は更に進化を遂げ、自己暗示―それも完全に「自分」であるという記憶を封印できる―能力を身につけていた。 思い込む、というのに近い。 ただ、それを彼自身も自覚できないほどの強力な自己暗示だった。 たとえば、『一週間だけフリーターになってアルバイトを探す』と自己暗示をかければ、一週間は本当に自分が何者かを忘れ、アルバイト情報誌を読んでいたりする。 更に、自己暗示が効いている間は、成長が遅くなることも判明した。 ほぼ完璧に近い能力だ。 この六年でわかった事がいくつかある。 まず、ブリキの車を送った可奈子をはじめとする河村姉妹、米倉夏美は消息を絶った、ということ。 真理だけは未だ洗脳が解けておらず、普通に生活していること。 その理由は、真理の養父母の血縁者に小林二郎というミネルヴァの元研究員がいて、そのせいで真理だけは可奈子たちと接触していないらしい。 かえって好都合だと彼は思った。 真理は、辛いことを忘れて、普通に生きている。きっと、幸せなんだろうな、と想像する。 真理は今度の四月から大学に入学するらしい。 今なら、現在の体格なら、大学生に見えるはずだ。 真理が通う大学に、彼は紛れ込んだ。 生徒になりすますのは簡単なことだ。小中学校や高校と違い、大学は生徒の人数を把握しにくいところだ。 少し『力』を使って周囲に暗示をかければ、彼を疑う者は誰もいない。 そうしてようやく、彼は真理の前に立つことになる。 真理がつけてくれた名で。彼が渇望した名で。 教育学部の新歓コンパの席で、彼はついに真理に出会った。 記憶の中の真理は幼かったが、面影はある。紛れもなく真理だ。 端整な顔立ちに、長く流れる漆黒の髪。 染めてる女性が多い中で、それは彼女の美しさを際立たせていた。 彼は、真理のためだけに生きてきた。真理に会うために。 初めて触れてくれたあの日から、それだけを夢に、糧に。 長い年月だった。 彼は生まれてわずか十一年だが、外見以上に生きてきた時間は長いように思われた。 片恋と呼ぶには、それはあまりにも激しい想いだった。 そして、彼は仮面をかぶる。 サイコメトラーである彼女に読まれぬよう、単純で、助平で、お調子者で、少し気弱で、けれども男らしい面もある、どこにでもいるような学生になる。 彼は、『矢島透』になる。 透は、一目見ただけで真理を好きになってしまった。 大きく印象的な黒い瞳。長い睫。形の良いふっくらとした唇。美しいラインを描いている鼻筋。濡れたように肩を滑り落ちる黒髪。 アルコールのせいか、白い肌がうっすらと朱に染まっている。着ている服は流行のものではないが、彼女の容姿に合う、品の良い『自分流』のお洒落、という感じだった。 近くにいた友人に声をかけた。 「ね、あそこにいる、髪の長い子だれ?お前知ってる?あ、染めてない方だけど」 「小林、だったかな。なに、お前ああいうの好み?」 「えー、だって可愛いじゃん。今時茶髪じゃないのなんて、珍しいし。ちょっと声かけてこよっかなあ」 「小林ってけっこうキツイらしいぜ。透、フラれても落ち込むなよ」 「余計なお世話だよ。ばぁか」 友人は、せいぜい頑張れとばかりにぞんざいに手を振った。 透は、ビールを片手に真理の隣りのソファに座る。 「注ごうか?」 真理が透を見た。その視線に、透はそれだけでどきんと胸が高鳴る。 ――逢いたかった!―― 誰かの声を聞いた気がした。 「じゃ、お願いするね」 真理がにっこりと笑い、返答する。 あからさまに破顔した透を見て、真理の反対側にいた茶髪の女の子がくすくす笑う。 「相変わらずモテるねー真理は」 「やめてよ、もう」 だが、まんざらでもなさそうな表情だ。 「僕は生物専攻なんだけど、君は?」 ビールを注ぎながら、当たり障りのない会話から始める。 「考古学よ」 「へえ、どんなことやってるの?」 「わかるかなあ、生物専攻の人に」 「意地悪しないで教えてよ。やっぱ、土器とか掘ってるわけ?」 「違うわよ。変なイメージ持たないでくれる?」 それから真理は楽しげに、遺跡や、高校時代に参加した発掘調査の話をする。 透が茶々を入れると、アルコールのせいか真理は大いに笑ってくれる。こんなに幸せなことはない。 ひとしきり喋ったあと、真理は笑いながら言った。 「面白い人ねー。あたしは小林真理。あなたは?」 「矢島透です。よろしく。透って呼んでくれると嬉しいなあ」 「よろしく、矢島くん」 「あ、意地悪だなあ」 「はいはいわかったわよ。よろしくね、透」 「よろしく、真理」 そして。 そして、運命の歯車が軋みながら廻り始めた。 |
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