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シュアールは後手に回ったことを後悔した。確認する前に、ハトルの小屋を訪ねて足止めしておけば良かったのだ。 天界に通じた異能者を、筆舌に尽くしがたい程の「脅し」をもって、シュアールは「真実」を聞き出した。 小屋にはたどたどしい筆跡で、ハトルの置手紙が残っていた。 『シュアール いろいろと、ありがとう。 すぐに行かないと「お迎え」に間に合わないそうなので、 あいさつしないで行きます。 ごめんなさい。 「むこう」に行ったら、またすぐに帰ってきます。 かえってくるとき、おれが「てんし」になれてるように、がんばります。 「てんし」になったら、やりたいことがあるんだ。 たのしみにしててください。 ハトル』 「馬鹿野郎が・・・!」 シュアールは手紙を懐に仕舞うと、ハトルの後を追った。 だらだらとした坂道。山の中腹に差し掛かっても、まだハトルは捕まらない。 陽が翳り始めた。長い一日だ。完全に暮れるまでに見つけないと厄介なことになる。 しかし。 シュアールは己の体を呪った。異能力以外の全てにおいて、彼は普通人の体力から劣っていた。 病弱で脆弱で持久力のない肉体。僅かばかりの炎しか生み出せない、弱い弱いよわい体。 せめて足くらい速かったら、もうハトルに追いつけているかも知れないのに。 シュアールは息を切らせて走った。肉体の限界が近づいているのを、感じた。 呼吸は途切れ途切れになり、喉の奥からは鉛の香りがした。何度目かの坂を上って、地面に倒れこむ。 四つんばいになった彼の喉から、血が噴出した。大地が朱に染まった。 肺が破れるには早過ぎる。喉が裂けただけだと思いたい。 まだ、倒れる訳にはいかない。まだ、早い。闇はまだ来ない。 闇がハトルを呑み込んでしまったら・・・。 シュアールは地に伏した自分の手に、自分の影が覆いかぶさるのを見る。 手。大地。朱い筈の血が黒く見える。闇が何もかも暗黒にしてしまう。 絶望感が、漆黒が、倒れたシュアールを地面に釘付ける。 目が・・・かすむ。 ― 黒も光るんだね ― 突然、ハトルの声を思い出した。 自分の磨いた黒曜石。それを受け取り、弾けそうな笑顔で喜ぶハトル。 ああ、黒い色も光るんだねシュアール。 輝くってこういうことなんだね・・・! 胸元を真っ赤にして、シュアールは再び立ち上がった。 ハトルは見つかる。ハトルは闇じゃない。悪魔じゃない。 自分にはハトルの光り輝く「気配」がいつも感じられていたじゃないか。 たとえ世界が闇に閉ざされても、ハトルはその中に沈んだりはしない。 彼が何のために「天使」になりたいのか、シュアールには薄々見当が付いていた。 すぐ顔に出る単純な混血。黒い翼が生えてきた時の、彼の泣き顔。 怒るようにしか、慰められなかった自分を思い出す。 負けるな。 ハトル、負けるな。まだ、決まった訳じゃない。何も終わった訳じゃない。 それしか、言えなかった。不器用だった。 陽が沈んでも、まだ終わりじゃない。夜が迎えに来ても、ハトルはその中で輝く。 走れシュアール。急げ! 躊躇している暇はない。ハトルは足が速い。 絶望感の中から、自分を無理やり叱咤する。 不器用だったから、今、走るしかない。今、やれることしか出来ないから。 曲がりくねった道なき道を、シュアールはかき分ける。鬱蒼とした樹木が、視界を閉ざす。 軌跡。 今のシュアールには、それが全てになっていた。 ハトルの通った痕跡。それを発見して一瞬の希望を持ち、未だ追いつけない現実を呪う。 尖った枝はシュアールの衣服を裂き、急ぐ脚に無数の傷をつけた。 がらり。 俄かに足元が口を開けた。崖だ。 かなりの高さがある。落ちたらまず助からない。シュアールはギリギリで難を逃れた緊張と弛緩で、暫し棒立ちになった。 そして・・・。 幻覚が見えたのかと我が目を疑ったその時。 崖の真下、遥か眼下に。 木々の隙間を縫って進む、見覚えのある黒い翼を見つけた。 「ハトル!」 ありったけの声で叫ぶ。声は血反吐と一緒くたになって、山に響いた。 誰かに呼ばれたような気がして、ハトルは振り返った。 背後には、今自分が越えてきた山がそびえている。 少しだけその頂を仰ぐ。白いものが目の端を過ぎった。崖っぷち。他には何もない。 「さほどに心配する必要もなかったか」 「杞憂、でしたか」 崖の上では、倒れたままのシュアールに、二頭の馬が追いついていた。 より豪奢な鞍を置いた馬から、初老の男が降り立つ。習って青年の方も下馬した。 地面に染み込んだ血と、胸元の汚れを見て、男は「死んだか」と吐き捨てた。 青年が怖々とシュアールの顔を覗き込む。 「もしかしたら・・・はい、多分」 「ちゃんと確認しろ」 「え。わ、私がですか、宗主様?!」 「こいつが妙なことを企てとるやも知れんと、お前が言い出したのではないか」 「わ、私はただ、ご注進に上がっただけでして。ひ、酷いんですよ、正直に言わないと私の、 か、髪やら顔を焦がすとか何とか言って、お、脅かして・・・」 青年はうろたえつつも憎々しげに、足下のシュアールを見下ろした。 「・・・臆病者が」 宗主はシュアールの長い髪を一束、逆手に持つとそのまま引き上げた。 何本か根元でぶちぶちと髪の切れる、嫌な感触がした。真っ白な顔は、ぴくりともしない。 「死んどる」 青年はほっと安堵の息をもらした。 「無駄足だったな。帰るぞ」 宗主は無造作に髪を放した。半ば赤茶けた髪ごと、頭が地面で硬い音をたてた。 「こ、このまま放って、おきますか」 「その辺の獣が喰うだろう」 「そ、そうですね」 宗主が馬の手綱を取った。すると、これまで従順だった馬が首を大きく持ち上げ、一声いなないた。 「悲鳴」に近いものだった。それを合図に、馬は二頭とも人間を残して走り出し、あっという間に森に消えた。 「な、なん・・・」 呆然とする二人の後ろで、代わりに動き始めた生き物が居た。 全身から微かな熱を放ち、鬼火のようなものが周囲を取り囲んでいる。 幽鬼。 箍の外れた異能族が、制御不能の「力」を漏らしている。それはそのまま、彼の生命の火そのものだ。 ゆっくりと半透明な焔が、上半身を起こしたシュアールを包んでいる。 炎が全身を覆う様は四つ足の獣のようにも見える。 「ギリギリ、まだ死んでないんだな、これが・・・」 鬼火の一つが、さっきまで馬の居た場所まで飛翔し、落ちた。 「ひい!」 青年の方が先に悲鳴を上げた。 「情けない声を聞かせるなよ」 シュアールは起き上がるのもやっとだったが、立ち上がって同類である「異能族」の青年を睨んだ。 「あれだけ脅かした僕に、恨みを抱くお前の気持ちは解る。 だが、人間に忠義を尽くすお前の気持ちは解らない。何故、天界とあんな条件を結んだりした」 「わ、我々には関係ないことじゃないか・・・どうして、そ、そんなに怒るんだ」 「馬鹿が!解らないのか!」 シュアールは宗主を指差した。その指先からも青白い火花が散っている。 「こいつら『普通の人間』を名乗る連中が考えていることが何だかわかるか! 先ずは厄介な天界と魔界の排斥、つまり『混血』との縁切りだ。それが済んだら・・・ 次に邪魔になるのは、僕たちだ!」 「え・・・」 青年は虚をつかれて絶句した。 「その様子じゃ、本当に考えが及ばなかったんだな・・・」 シュアールは、この男の愚かさを逆に哀れに思った。こいつも利用されただけだ。ただ「便利だ」というだけで。 真の役者は・・・。 「待て。何か誤解があるようだが・・・」 間に割って入った宗主に、シュアールは向き直った。 「誤解?何が誤解です。彼はついさっき僕にこう言いましたよ。 天界は確かに、今、人界に居る『可能性のある混血』を引き取ると認めた。 ただし。『可能性のない混血の排除』と引き換えに。 『可能性のない混血』、つまり『天使になる可能性が極めて低い混血』のことだ。 そして『排除』とは『消去』。抹殺を意味している、とね・・・!」 宗主は青年を横目で見た。視線はきつく、侮蔑の瞳だった。青年は震え上がった。 「こ、こいつが脅かすからですよ!そ、それで仕方なく、」 「口の軽い者はいらん」 宗主は腰に佩びた剣の柄に右手をかけた。その芸術的な装飾の鞘から、長刀を引き抜く。 「待・・・!」 シュアールの制止の隙もなく、青年は正面から喉元を突き刺され、絶命した。 恐怖と驚愕の表情を貼り付けたまま、青年の体が地に転がった。 「何て・・・事を・・・」 「おしゃべりは身を滅ぼす、の見本のような奴だ。どうせ長くはもたん命だ。生かしておいてもロクなことにはならん」 「僕も・・・殺す気ですか」 シュアールの周囲の焔はまだ揺れている。いや、動揺を隠せないかのように、更に動きが騒めいている。 「・・・お父さん」 その時、太陽が完全に山の端に姿を消した。 |
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